新紙幣で話題の渋沢栄一。彼が関わった企業のひとつ、大日本人造肥料株式会社。当時の農村では、新技術の肥料に興味がないことに加え、在来の肥料の売り手が貸付けて売っていたものを使用するという刊行のもとで肥料を入手していました。つまりこの慣行に従わなければ新しい肥料は買わないというので、大日本人造肥料会社の社員が農村各地を回って、村落の人々の要望通り、つまり掛取引で肥料を売ったそうです(『大日本人造肥料株式会社五十年史』、41頁)。慣行に合わせて新機軸の商品の販路を拡大したという訳ですね。


渋沢とともに東京人造肥料を設立して同じく肥料産業の発展に貢献したのが高峰譲吉は。彼もまたこうした新肥料の利用の結果について、エビデンスを得た上で販路の開拓に踏み切ったそうです。史料にはこんな描写。
 

「博士は嘗て文献によりて知りたる所と、其報告とが符節を合したるが如きに、恰も予期したることの現実となりたることのやうに喜び、他の人々は如何にも不思議の奇術をでも見るがの如くに驚嘆した」

(『渋沢栄一伝記資料第十二巻』所収、塩原又策編「高峰博士」)